[合掌] 江藤慎一去世
事實上這是2/28的新聞了...
http://www.chunichi.co.jp/article/sports/news/CK2008022902091393.html
江藤慎一氏死去 中日主砲、セ・パ首位打者
2008年2月29日 朝刊
プロ野球の中日、ロッテなどで強打者として活躍し、史上初めてセ、パ両リーグで首
位打者になった江藤慎一(えとう・しんいち)氏が28日午後3時38分、肝臓がんの
ため東京都内の病院で死去した。70歳。熊本県出身。葬儀・告別式は3月5日午前1
0時から東京都品川区西五反田5の32の20、桐ケ谷斎場で。喪主は三女忍(しのぶ
)さん。葬儀委員長は渋沢良一元セ・リーグ事務局長。
熊本・熊本商高から社会人の日鉄二瀬を経て1959年に中日に入団。64年から2
年連続で首位打者に輝いた。71年にはロッテで首位打者となり、史上初めて両リーグ
での首位打者獲得を達成した。大洋(現横浜)でもプレー。75年に移籍した太平洋(
現西武)では兼任監督も務めた。
気迫をむき出しにするプレースタイルから「闘将」と呼ばれ、オールスター戦に11
度出場し、ベストナインにも6度選出された。セ、パ両リーグの全12球団から本塁打
もマーク。現役18年間の通算成績は2084試合に出場し、打率2割8分7厘、20
57安打、367本塁打、1189打点。76年にロッテで現役を引退した後、85年
には「日本野球体育学校(江藤野球塾)」(静岡県)を設立。91年に業務提携した社
会人チームのヤオハンを2度、都市対抗大会出場に導いた。
◆勝負強さ光る「闘将」 セ・パ4球団渡り2057安打
28日に死去した江藤慎一さんは、気迫あふれる姿から「闘将」と呼ばれた。
中日では11シーズンにわたって活躍。1954年に初めて日本一になったときのエ
ース杉下茂さん(82)が、監督に就任した59年に江藤さんが入団してきた。「ちょ
うど大打者西沢道夫さんが、抜けた直後。打力を生かすため、捕手で入ってきたが、一
塁に転向させ、さらに外野飛球を捕る練習をさせた。すぐに5番打者として起用し戦力
になってくれた」と話した。
杉下さんの監督時代、米大リーグ、レッズをまねて袖なしユニホームを着用したこと
があった。その当時を思い出し、「ノースリーブのユニホームは体が小さかったり、細
い選手には似合わない。一番似合ったのが体の大きな江藤だった」という。
杉下さんは現在、中日の沖縄キャンプに参加し、若い選手たちにアドバイスを送って
いる。「自分より若い人が先に逝っちゃうのは、本当にさみしい」と悼んだ。
一方、中日の元監督中利夫さん(71)は現役時代、中堅・中、左翼・江藤のコンビ
で外野を守った。俊足で知られる中さんと違い、江藤さんは大型選手。「捕手で入団し
、打力を買われ外野手に転向した人。のしのし走るというタイプだった」と当時を思い
起こした。
攻撃は中さんが塁に出て、江藤さんら主軸で点を取るパターン。「豪快な打撃で、勝
負強かった。外角の球でも強引に引っ張る打者。内角球は力でポテンヒットにしていた
。だから2年連続首位打者に輝いたんだと思う」と振り返った。
◆「野球の師だった」実弟の省三さん
江藤慎一さんの実弟で野球評論家の江藤省三さん(65)は「自分に野球を与えてく
れた」と故人をしのんだ。省三さんによると、慎一さんは5年前に脳卒中で倒れてから
入院生活を続け、その間にがんを患ったという。
省三さんは高校1年の冬に熊本商高から愛知・中京商高(現中京大中京高)に転校。
慶大を経て巨人に入団した。「兄貴というより、野球の師だった」と語った。
◆長嶋茂雄氏「寂しいなぁ」
■長嶋茂雄・元巨人監督の話…「どんぐり眼」に「分厚い胸板」で、袖なしのユニホ
ームがよく似合っていた。性格は豪快でさっぱり。力いっぱいのフルスイングが目に浮
かぶ。野球一筋で、ほかのことには無頓着。もういなくなった昔タイプの野球選手だっ
た。寂しいなぁ。
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又走了一位名將阿.....
ご冥福をお祈り申し上げます。
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※ 發信站: 批踢踢實業坊(ptt.cc)
◆ From: 220.132.76.105
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03/03 10:39, , 1F
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